あたしがそれを見てしまったのは、本当に偶然の事で、だけれどその光景はずっと今でもあたしの心を掴んでは今でも思考をその時のままに引き戻すから、本当に困ってしまう。
それは、美しかった。だけれど、誰もが賛美するような類の美しさではなくて、なにかいけないもの、ひそやかな秘密を孕んだ、だからこそとびきり美しいものなのだ、と思う。

 

Adeiu to the piano

 

  その日、音大生、雛森桃は偶々校門を出たところで忘れ物に気づいて、急ぎ足で練習室に戻った。明日にはソルフェージュの試験を控えているというのに譜面を置き忘れた自分の不注意を反省しながら、階段を駆け昇った頃には、彼女の息はぜぇぜぇと不規則になっていた。3月になってもまだ思いのほか外気は冷たくて、急に室内に入って走ったことによって上がった体温を抑えるために大きく息を整える。大またに歩いて、廊下の突き当たりの、自分が使用していた練習室まで歩く。
他の教室では、卒業を控えた4年生が留学するために、あるいは音楽で食べていく道を開くために、鬼気迫る様子で各々の演奏を磨いていた。そうでないものは、廊下の長椅子に座りながら残り少ない学生生活をそれぞれなりの方法で費やしているようだった。自分と同じ3年生の顔見知りの女生徒と、4年生の男子の先輩が限られた時間を惜しむかのように寄り添っているのを横目で見ながら、雛森は急ぎ足で通り過ぎた。

 (もうすぐ先輩達はいなくなっちゃうんだ・・)

  中学や高校生の卒業、とはまた違う。あらゆる地方から集まった、あらゆる種類の人間も卒業すればまた道を違えていく。同じ場所で共有した4年間の記憶もまた全国散り散りに分かたれるのだろう。あと一年後にそれを控えた雛森にはいかんせん実感が沸かないが、そういうことなのだ。毎日顔を合わせる先輩達とやがて会わなくなる日が来るという事実。

  そこまで思いを巡らせた時、彼女の脳裏に突然何の脈絡も無く、ある先輩の顔が浮かんだ。

 彼は、雛森の1期上の4年生の生徒であった。同じピアノ科の生徒である。名前を綾瀬川と言ったが、この一年間彼と同じ教師の門下につき、週に何コマかは同じ時間に授業を受けることもあった。
彼のピアノは、誰もが認める実力で、確かな技術と独自の表現には定評があった。また、容姿も上品でまさに芸術家然とした独特の雰囲気をその身に纏っており、しばしば雛森は他の女子生徒から彼と接することが出来ることを羨まれた。しかし同時にその天賦を妬み、中傷する輩も存在した。特に綾瀬川を見初めた恋人に振られた、などという男子は、「綾瀬川弓親は人の女をとっかえひっかえしている」などというあらぬ噂を立てては広めたが、そんな嫌がらせにも本人は飄々としていて一向に意に介さなかった。
彼は音楽にしか全くと言っていいほど興味を示さず、その演奏の美しさに対する執着は並みのものではなかった。それ故に、演奏に対する妥協は許さず雛森も授業の前後には何度か注意を受けたことがあった。それ曰く「君のピアノは無理やりに感情を込めようとして、曲のために感情を作り出しているようだ、もっと内側から溢れ出る情感を指先から表現するんだよ」等、色々。それらは何時も抽象的で、難解で、そのたびに雛森は首をかしげて困惑するのだった。
また、周りの演奏に対しても彼は容赦なく、気に入らない演奏は直るまで助言し続ける。それも率直に。しかし彼の執着具合に周りは半ば呆れながらも、彼の奏でる音を聴けばそれも消えて憧れだけが残るのだった。彼の音楽に対する姿勢は、周りを困惑させつつも、惹きつける。そういう不思議な人間だった。

(だからといって天才っていうわけじゃないのよね。)

 ゆっくりと、綾瀬川の一つ一つの言葉を反芻しながら、雛森はまた思考を巡らす。他人の音楽に対して厳しかったそれ以上に、彼は自分の音楽に対して真摯であったと思う。雛森の周りの女生徒達は彼を「生まれもっての天才」と称しているが、彼女は知っている。彼は並々ならぬ努力の末に今の学内トップの座を守り続けているのだ。起きているときの殆どはピアノに費やしているという。一度「どうしてそこまでしてトップであり続けたいんですか?」と無遠慮にも質問したことがある。そうすると、彼は曲を続けたまま、ニヒルな笑いを浮かべて「トップでいたいんじゃなくて、ピアノがうまくなりたいんだよ。君だって巧くなったら嬉しいだろう?僕は美しいものが好きだから。」と謎めいた流し目を送ってきたのだった。だからこそ、どんな難解な示唆を与えられても雛森は綾瀬川を、深く敬愛し、尊敬しているのだろう。各学科首席ばかりが出場することを許される、卒業生演奏会に綾瀬川が出場すると知ったとき、雛森は自分のことのように誇らしく思いながら、そう確信した。鍵盤の上で舞うように動くその白い指に、確かに憧れていたのだ。
その先輩も、あと数日でここを去っていく。

 随分考え事をして歩いていたようだ。ようやく練習室の前に辿りつき、そのガラスのドアを開けようとドアノブに手をかけた時だった。

 「・・・・・だよっ!」

刹那聞こえた怒鳴り声に、雛森は思わず肩を竦めてノブに掛けた手をはたりと止めた。ドアの横の壁に寄り添って、中の様子を横目でそっと伺う。

 「なんでだよ・・・もう、駄目なのか、望みは無いのか」

それは、1期上の先輩、斑目一角の声であった。話したことは無いが、下宿しているアパートの部屋が近いので彼女の顔見知りではある。部屋の様子は伺えなかったが、部屋の窓から射した斜陽が部屋の外まで中にいる人物の影を伸ばし廊下に黒い陰影を落としていた。このシルエットは間違いなく斑目であろう。管楽器科でトロンボーンを専攻している彼は、気さくなキャラクターで周囲の人気者であったはずだ。練習熱心で夜遅くまで練習しては、大家に毎晩怒鳴られていた。その彼がどうしてこんなところに。

「そうみたい。医者が駄目だというから、もう駄目なんだろうね。」

 聞こえたもう一人の人物の声に、雛森ははっとした。この深いアルト、綾瀬川弓親である。
何時も威厳と自信に満ちたその声は、今日はかすかに震えていた。そしてその声の主は、一語一語を確かめるように、気丈に言ったのだった。

 

 

 「僕の指は、病気で、もう少しで、動かなくなる。」

 

 

 

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