月 と ま や か し

 

段々と当たりが薄暗くなって、檜佐木は少し後悔した。先程別れた薬屋の女が、「このあたりは、出るからねぇ。」と言っていたのを思い出す。特に今歩いているような、ほの暗い峠では。

数日前に、檜佐木は、統学院の一年生を引き連れた現世の実習で右顔面を負傷した。学年内きっての優等生であり、卒業後の席官入りも約束され、有望株であった彼にとってはそれは大きな痛手であった。
護廷入りの話が白紙に戻るということは無かったにしろ、学友二人を一度に失い、自らも大怪我を負った一連の出来事は確実に彼の自信に、快活だった表情に、暗い影を落としていた。
彼の心情を察してか、察せずか、学院側は彼に数日の休暇を認め、傷もよく治癒しておくようにと命じた。半ば言いくるめられる形で休学を勧められ、行くあてもなくなった彼は、後輩の阿散井からきいた、”傷によく聞く薬”とやらを求めて、流魂街に下っていったのだった。

街の中心部から少し離れると、辺りの風景は急に閑散とし、さらにいくつかの峠を越え、件の薬屋が住むという小さな掘建て小屋に辿り着く頃には、すでに日が沈み始めていた。長い距離を歩いてきただけあって、評判どおり薬はよく効き、痛みは段々と引いていった。女には、数週間もすれば視力が一時的に衰えている右目も治るだろうと言われた。

丁重に礼を言い、そこを去ろうとすると女は「逢魔が時にこの峠は出歩かない方が良い。近頃はよくあやかしの類が出るし、賊もいる。悪い事は言わないから一晩泊まって行け」と忠告したが、いつまでも学院を休み訳にも行かないし、悪いから、と断って発った。
しかし日は完全に沈み、東の空から銀盆の月が昇り始めると、さすがに彼も忠告通りに宿を借りれば良かったと思った。あたりは行けども行けども、うっそうとした木々に囲まれており、しかも歩けば歩くほどその闇は濃度を増しているような気がする。

彼はつ、と立ち止まって後ろを振り返った。

その途端視界に白いものが入りぎょっとし、刹那、右目に巻いていた包帯がはらりと落ちただけなのだと気づき、安堵した。まだ生々しい傷跡が露わになり、微かな夜風に晒される。そして視力のおちた右目も、また露わになったことにより、視界は暗闇の中でも分かるほどに確実に、悪くなった。

今宵は満月だったが、不穏な鈍色の雲が今まさにその輝きを塞き止めようと動いていた。完全に暗闇になるまでには、ふもとの街までは下りたいと思ったが、焦れば焦るほど方位を失っていくのを感じた。

(やべ、迷ったかもしんねぇ・・・。)

自分がどちらに進んでいるか、そもそもどちらの方角からやって来たのかも曖昧になってきて、檜佐木は途方に暮れた。このまま適当な場所を見つけ、一晩寒さをしのいで、夜が明けたらまたふもとを目指すか、今無理矢理にでも道を探すか。彼が考えあぐねていたその時だった。


「そちらのおかた。」

凛、と空気が張り、突如澄んだ声が、闇の中で小さく、しかし確実な存在感を持って聞こえて、檜佐木は戦慄した。声がする方へ、ゆっくり振り返る。

「・・・・・・・・!!」

そこには、一人の女が月光に照らされ、淡く浮かび上がるように、すっと立っていた。

闇夜の中でさえ白く映る絹肌と、それにひどく似つかわしい、紫水晶のような双眸。そして柘榴(ざくろ)のようにつやつやと、グロテスクにさえ感じられる程、輝く形の良い唇。それらが、少しでもつつけば崩れてしまいそうな、完璧な危うさを持って微笑んでいる。この世の物とは思えないその美しさに、思わず鳥肌が立つのを檜佐木は感じた。

「道にお迷いですか?」
「お前・・誰だ。」

最初はその美しさに呆然とする檜佐木だったが、我に返って問うた。こんな夜に、女が一人身でこんなところを歩いているなど、只事ではない。きけば、あやかしどもは、美しい女に化けて、旅人をたぶらかすという。ましてや、目の前にいる女が本当に幻のように美しいとなれば、尚更。

「私はこの近くに住んでいる女に御座います。道にお迷いならば、一晩宿をお貸しいたしましょう。」

女は妖艶に微笑んだ。その妖しさに、檜佐木は更に表情を曇らせる。
以前、友人である阿近が「目を怪我したときには、特に普段見えざるものが見えるらしい。まぁ、霊感のないお前には見えないだろうがな。」と鼻で笑ってきたのを思い出した。彼は思わず右目を細めたが、相変わらず女は目前に艶やかに立っている。その姿はひどく非現実的に見えたが、しかし同時に確かな現実感をもってそこに顕在していた。

「じゃあ・・・お言葉に甘えて。」

まだ女への疑念はあったが、半ばやけになって檜佐木は言っていた。これまでも散々な目にあってきた。殺されるのならば、またそれも運命。どうせ自分のこの先に期待などは、無い。堕ちるところまで堕ちていけ、という謂わば堕落思考のようなものが彼の頭を巡った。

 

 

 

*****

「では、此方でお休みくださいな。」

一組の布団を出されて、檜佐木は非情に恐縮した。女の住んでいる家は、あの場所から少し歩いたところにあった。夕食は質素ながらなかなか味も良く、更に女がどこからか酒を取り出して酌をしてきたので、檜佐木は遠慮しつつも少し呑み、ほろ酔い気味だった。

「あ、あの、悪いですし・・・俺はそこで座って寝かせて貰いますから、布団は使ってください。」
「お心遣い、有難く頂きます・・・しかし、それではいけませぬ。」
「はい?」

「何がっすか?」と震える声で訊くと、女はにっこり笑って床に座っている檜佐木ににじり寄り、耳元で囁いた。

「ご冗談をおっしゃいまするな。」

女はその桜貝のような唇を檜佐木のそれに、ぐっと押し付けてきた。
突然の事に、檜佐木は目を見開く。酔っているのも手伝って、頭がぼぉっとしていくのが分かった。

「・・・・・あ、あの」
「旅のおかた、見たところなかなかの男前では御座いませぬか。姫方も放っては置かれないでしょう?」
「え、えぇと・・・」

頭の中で、今の出来事が先程までと繋がらず、檜佐木はひたすら混乱していた。彼とて、女性経験は人並みにはある。某同期の友人曰く「据え膳食わぬは恥」だという。が、目の前の女は今日、しかもつい先刻初めて出遭ったのである。たしかに幻のように美しい。しかし、いきなり夜伽を申し出るなど、明らかに妖しい。やはり、妖怪の類なのやもしれぬ。しかし、美しい。

檜佐木がどのように返答しようか逡巡していると、女は近づけていた顔をぐっと引いて、俯いた。明かりの少ない部屋の中で、長い睫毛の影だけが、不自然に揺らめいていた。

「私のこと、お嫌いですか?」
「そ、そうじゃなくってっスすね・・・。」

違うのだ、そうではなくて。ひたすら頭を抱えていると、突如女のものではない、しかし男にしては高めの声が響いた。

 

「馬鹿だよね、君。」
「・・・・・・・・え!?」

檜佐木が頭を上げても、そこに居るのは相変わらず女一人だった。しかし表情は先程までの奥ゆかしく、手弱女のようなものではなく、心底見るものを軽蔑したような、嘲笑に溢れたものだった。其れもまた美しいのだが、表情がこんなにも人の印象を左右するものなのかと、檜佐木は意識と遠いところで変に感慨深く思ったのだった。

「あ、あの・・・。」
「目の前にこんな美人が居るのに、食うことも出来ないわけ。せめて少しは楽しませてあげようかな、と思ったけど・・・もう良いよ、一角!!」

檜佐木が呆気にとられていると、何処から来たのか、突然坊主頭の目つきの悪い男が現れた。精悍そうな体付きの男は、三白眼で檜佐木を一瞥して、つまらなそうに女に向き直った。

「こいつか・・・弱そうだな。」
「ちょ・・お前どこに隠れてた!?」

檜佐木が必死の形相で訊ねると、男は面倒くさそうに檜佐木に向き直り、上を指差した。

「天井の梁んとこ。気づかないったァ、てめぇ相当雑魚だな。霊圧消して無かったのによ。」
「お前ら、霊力あんのか!?」
「あれじゃない、僕の美しさに見惚れて今まで気づかなかったんだよ。」
「僕・・・って、お前男だったのか!?」
「・・・・もう、さっきからうるさいなぁ。君は獲物なんだから黙っといてよ。・・一角。」

女(?)が、一角と呼ばれた坊主頭に軽く目配せすると、一角は檜佐木の両手を後ろ手に縛ろうとした。檜佐木は必死に抵抗したが、酔っているのと、一角の力が途轍もなく強いのが相まって、あっという間に拘束されてしまった。

「これじゃあ、あまりにも可哀想だから、特別に教えてあげる。」

女は無邪気で、嗜虐的な笑みを浮かべたまま言った。

「僕たちはいわゆる美人局ってやつでね。僕が馬鹿な男たちを誘って寝所に連れ込んで油断させたところを、一角が襲って金品を奪い取る。」
「てめぇが今までで一番だましやすかったな。」
「普通はボコボコにしちゃうけど、君は運がよかったね。見逃してあげるよ。」
「・・・・・・・。」
「でも金は貰ってくぜ。」

呆気にとられている檜佐木の着物の懐や袂に、一角は無遠慮に手を差し込んだ。小さな巾着袋を取り出す。

「チッ、これぽっちかよ。」
「仕方ないよ、学院生みたいだし。」

ありがとね、と女は無垢(だと信じていた)な笑顔を向けてきたかと思った瞬間、首にちくりと鋭い痛みを感じた。段々と自分の意識が混濁していくのを感じる。

女は檜佐木に向けて、ひらひらと手を振った。その白い手は蝶の様に虚空を舞い、そこで檜佐木は意識を失った。暗転。

 

「じゃ、さよなら。」

 

 

 

 

***********

ちゅんちゅんと鳥のさえずる声に目覚めて、檜佐木は辺りを見回し、目を瞬かせた。

辺りは、昨日迷った地点の風景とそう変わらないようだった。ただ昨夜とは違い、明るい陽射しが木々の間から差し込み、ふもとへ続く道をはっきりと示していた。まだぼんやりとした頭で、昨夜の記憶を辿る。
道に迷い、女に出会って――・・・
はっ、として懐を探ったが、あるはずの自分の持ち物は忽然と消えていた。
簡単に行きずりの人間を信じたりした己の軽率さを、檜佐木は悲痛な面持ちで責めた。(彼は、たとえ自分に非はあらずとも、相手を罵る事を知らない人間なのである。)

仕方なく無一文でふもとに降り、妙にふわふわした気分のまま、檜佐木は学院へ戻って行った。相変わらずそこには自分の籍があり、護廷入りの話もまた変わらずあり、当たり前の日常が戻ってきた。あの晩の事など忘れてしまうくらいに忙殺された檜佐木だったが、数年後月夜の晩にふとその出来事を思い出したりして、傍らにいる者に話して聞かせるのだった。男は話を聞くと、一瞬ぴくりと身体を震わせたが、最後には檜佐木を鼻で笑っては、相手にしなかった。

 

「本当だっての、多分・・・。」
「月夜に女に騙された?狸や狐にでも化かされたんじゃないの?」
「いや、あれは確かに人だった!そういやお前によく似た女だったなァ。」
「何言ってんのさ、馬ッ鹿じゃないの!?」

しかし、その時の女の醸し出す妖気のようなものは、弓親に似通っていた気がするが、一緒に居た男や肝心の女の容姿や名前となると、途端に記憶が曖昧になり、檜佐木は自信なさ気に、また頭を抱えるのだった。

 

 

 

 

 

 

一度一角、弓親、修兵が同時に登場する話を書いてみたかったんですけど・・・
なんか檜佐木さん可愛そうすぎてほんとすみません・・!!
美人局話も書いてみたかったので、個人的にはとっても楽しかったです(苦笑)
ゆみち子の口調がなんだか時代劇チックで読み返して恥ずかしくなってきたのですが、直すのもあれなんでこのままで(なんの羞恥プレイですか

 

 

 

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