夢 通 ふ

 

 

レンジで温めたグラタンを食べ、歯を磨いて、テレビの騒音を消す。
永久に続いて行くだろうくだらない毎日の延長線上にいる、あいつに会いに今日も電車に乗れば、曇ったガラス窓の冷たさがしんしんと身に凍みた。
2月の寒気が、コートの隙間から体中にじわじわ侵蝕してきて、思わず身を竦める。
そういえば、鍵さえ持たずただギターだけを持参していることに気づいて軽く自嘲が漏れた。
これじゃあ、まるで白痴だ。そう思ってももう諌める声も無く。

電車を2度乗り換えた頃、高まって行く焦燥にも似たときめきを抑えつつ、アーケード街に出た。
街は、ごちゃごちゃと色んな音楽や色彩や人間が目が眩むほどにあふれ帰っていて、そんな中ある店の前で立ち止まった。
ショーウィンドウの中で今日も美しく佇むその立ち姿に、思わず微笑みがこぼれた。

「おはよう、弓親。」

綺麗に磨かれたガラス窓の向こう、幻想の中であいつが作り物のような美しい笑みを返してきた。
そして今日もあいつが好きだった曲を爪弾く。
ガラス窓の向こうのお前は今も昔となんら変わらず、陶器のような白い肌に、神が与えたような黄金比の通りに作られた造形を湛え、何も移さぬ黒真珠の瞳で俺の知らぬどこかを見つめている。
あの頃と、何ら変わらぬその神秘、精巧さ。

お前が一番気に入っていたピックで、一番気に入っていた曲を、一番気に入っていたテンポで奏で出す。
弦を爪弾けば、広がるのは、悲しみの海。
あの頃よりは少し上達したと自負しながらも、かき鳴らすと、やっぱりあいつは困ったなぁ、とでも云いたげな笑みを浮かべた。

10日前、ここで再び邂逅したときは、夢かと思った。
もう2度と逢えなくなると思っていたはずのお前が、

「こんなところにいたんだな、おまえ。」

モノクロームに染まる街で、ここだけは甘美に色づき、まるで桃源郷のように輝く。
ギターを弾いていたはずだったのに、胸に浮かぶのはあいつが奏でるヴァイオリンの音色ばかりだった。

「これが、世界で一番美しい音だと僕は思うんだ。」

あの日、命よりも大切だというヴァイオリンの弦を、それにひどく似つかわしい白い指で抑えながらあいつは言った。
右手が、優雅に動いて透明な音が部屋に、脳内に、染み込んで行く。

「ナルシスト。」
「違うよ、僕の音がって事じゃなくて、このE音が美しいんだよ。」
「・・・・?」
「この世界には音なんて無限にあるのに、この音を発見した人はすごいよね。」

「ミ」の音ほど、美しく甘美でそれでいて冷たく、静謐で快活で、透明で深い音は無い、とあいつは断言した。
未だに、俺には理解出来ないけれど。

「『ド』でも『レ』でも『ミ』でも上手いやつが弾けば綺麗なんじゃねぇのか?」
「もう、分かっていないね本当に。他のどの音でもない、『ミ』だからこそそこに悠久の意味が存在するんだよ。」
「んな事言われたって、俺、音感無いからどの音が「ミ」かなんかわかんねぇよ。」

そう言えば、あいつは紫紺の眸をはじめて此方に向けた。
俺にとっては、E音なんかよりこの双眸の方がよっぽど「美しく甘美でおそれでいて冷たく、静謐で快活で、透明で深い」ものに見えたが、言っても鼻で笑われそうだったので、心に留めておいた。
その上に位置する柳眉が、なだらかに顰められ、あいつは心から気の毒でたまらない、というように俺を見上げた。

世界中の全ての音がドレミ・・・で聴こえるという絶対音感を、あいつはひけらかすことは無かったにしろ、確実に誇りに思っていたと思う。
それを全く持たない俺には、あいつの見るもの、聴くものが別の世界ののようだったのだ。

実際あいつには人とは違う世界や音が見えるようで、ただひたすらE音だけを一日中意味も無く弾き続けていることもしばしばあった。
芸術家など皆そんなものだろうと思いながら、そばで聴いたあの美しい音色も今はいずこ。

あいつには、あいつにしか見えない、あいつだけの世界があったようで、不器用で凡庸な俺にはそれが堪らなく羨ましく、眩しく思えた。
いつも思い出すのは、あの凛とした聡明さ。

「6本も弦があるなんて、やかましくて聴いていられない。」と言いつつも俺が弾けば、そっと耳を傾けてくれたあいつ。
(やれチューニングが合ってないだの、音が汚いだのと煩かったがそうやって改善されていく自分の音が、少しでもあいつの世界に近づいてくのがとても嬉しかった。)
これだから、未だに捨てきれずに居るヴィンテージのギターを今日も掻き鳴らす。

道行く現(うつつ)の人間の哀れむような視線にも負けず。
美化されていく思い出の中で、お前が教えてくれたE音だけは今も色褪せず。

本当は知っている。
美しかったおまえは、醜い世界に居たたまれずに、最も愛したE線でこの憂世と決別したのだ。

それでも、

譬えここに連なっているお前の音色や、眩いまでの輝きが全てまやかし、泡沫の夢であるとしても、俺にはとても美しく思える。

曲を止めて、一番細く繊細に見える弦を抑えずに、はじいた。
街は無音に鳴り、ただE音だけが振動しながら響き、やがて余韻を残して消えた。

お前が微笑んだ気がしたのも、今はまぼろし。

 

 

 

初現パの修弓、でした。
弓親がプロのヴァイオリニストで、檜佐木さんがフリーターでギターが趣味。
二人は同居していたのですが、ゆみちはE線(ヴァイオリンの一番高い音が出る弦)で己の首を絞めて自殺してしまいます。
しかしその現実が受け入れられずにあるお店に展示されている弓親そっくりのマネキンに傾倒している檜佐木さん、というのが書きたかった(笑)
彼は自分が見ているものを幻視と知りつつも、溺れていくタイプですよねー・・

BGM:椎名林檎「ポルターガイスト」

 

 


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